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総じておバカな国民に告ぐ!<Volume.2> [迷える人々へ]

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<2023/10/26 17:40 家路を辿る途中に夜の幕張メッセを撮る>

「人間、一生勉強だ」とは、皆一度ならず聞いた言葉だと思う。

でも、「本当に生涯を掛けて勉強に励んでいる人など皆無に近いのでは?」と、思っている私だ。

「人間は考える葦である」という、パスカルの言葉があるが、総じて「人間は考えない(或いは考えようとしない)葦である」ことも、また事実であろう。

齢を重ねる毎に易きに流れ、現状に満足し、或いは妥協というか己のこれまでの人生に折り合いを付け、「自分はこの程度でいいんだ」と自らその可能性の芽を摘み、それと同時に克己心等をなくす傾向が一段と強くなる。それを見ると、人間の持って生まれた性(さが)つまり本性は、向上心や高潔な志や謙虚さなどではなくて、つまらない保身と怠惰と成功願望と、それが成就できない者の他者(いわゆる勝ち組)への妬みや恨みなのだと喝破するしかない。

だから持てる者も持たざる者も、等しく自分を守るために平気で嘘も付くし、人が見ていなければ怠けるし、他人には辛辣で辛口で、それでいて中身も大してない割には尊大で、だからこそ自分には甘い者が過半なのだ。

そのような偽善や欺瞞を指摘し尚かつ批判すれば、批判された当人は批判した者に対して強い反発心を覚えるらしい。そして反論のつもりだろうか。「いい歳をして青臭いことを言う」とか、「正義漢ぶって誰彼構わず噛みつく狂犬」と言うようなレッテルを貼り付けて、暫しの間お仲間たちと、一緒になって溜飲を下げるのだ。情けないな、社会的(と言いながら実は金銭的)な成功体験がこの者たちの唯一の基準であり、その低俗さと浅薄さは如何ともし難い。

糅てて加えて謙虚さの欠片もないから、批判を受けて自分の言動や過去を振り返ってみることもしない。だから反省もしないし、却って批判した相手を嘘をついてまで貶めようと画策したり、名誉毀損だなどと大騒ぎして同情を託(かこ)つ馬鹿で恥知らずな人達も現れる訳だ。そんな人間に限っていざ批判から逃げられないとなったら、とどのつまりは相手を無視するか居直る為体。あのさ、、、それって犯罪だよ!、知ってた?

そんな人間になるくらいだったら、「いつまでも青臭くてバカな奴だ」と言わる方が余程マシだ。そんな人達の方こそ「いつまで経っても己を知らないモノホンの愚か者なのだ」と思うしかない。

人間、今の地位や自分の立ち位置や、自分を取り巻く環境に満足した時点で、はたまた醜い自分の心情を隠して己を美化したり、あるいは虚飾に走った時点で、それ以降の人間としての成長なんかあり得ない。保身のために言い訳をしたり嘘を付いたり、「これでいいんだ!」と開き直ったり自己満足した時点で、「考えない葦」に成り果てるのだ。

ところでこの記事のタイトルである<総じておバカな国民に告ぐ!>だが、このタイトルでは、その「総じておバカな国民の反感と顰蹙を買ってしまうのは必至だろう」と考える人も少なからずいるだろう。だがそれでも私はこのタイトルを変えようとは思わない。それは日本人の意識はおしなべて低すぎると常々思っているからだ。これは私の確信だ。

なぜ日本人はこうも他者への労りを忘れ、挙げ句の果ては自己チューに成り果ててしまったのだろう。何故こうも仲良し俱楽部的な集団の中にいないと落ち着かないのだろう。仲間外れにされるのがそれほど恐いのか? 何故ああも周りに影響されて結局のところ流されてしまうのだろう。なぜ自分の意見を堂々と述べられないのだろう。また仮に述べたとしても、なぜ己が稚拙で無知である事を、ああも無様に曝け出してしまうのか。そしてたった一度の失敗で羹に懲りて膾を吹くのだ。

それだけではない。批判を謙虚に受け止められず、却って批判した者を逆恨みして保身に走ったり、あろうことか仲間を募って、批判した相手を嘘を付いてまで貶めようと画策する者さえ現れる始末だ。

ブログでも上記に挙げたことは全て当て嵌まる。私は常々思っているのだが、ブログは嘘を付いたり法律を犯してまですることなのか? そうまでしてアクセス数を増やして金儲けがしたいのか それ程までして自分を身の丈以上に大きく見せたいのか! 全てがすべて己の利得のため、虚栄心の為せる業なのか。どうしてこうも日本人は恥じる心をなくしてしまったのか? そもそも損得でしか物事を判断できないなんて人間としてあまりにも浅ましくないか?!?!

これが愚かと言わずして他に何と呼べば良いのか。

日本人の過半は、自分自身と自分に関わりのある周りの人達や出来事にしか関心を示さず、世界的に見れば大変な出来事や災害や事件や紛争・戦争などを、自分たちとも関わる重大な出来事だとなぜ感知できないのだろう。ウクライナ戦争や、イスラエルの国際人権規約違反等々の問題が、友達や同僚との日常会話のネタになる程度の、個人的で極めて矮小な認識しかないのだろう。

日本に重大な影響があるのは、なにも覇権主義の中国でも、常に領土拡張を目論むロシアでも、恫喝的で敵対的な北朝鮮だけでもない。そんな地政学的な近隣諸国との関係だけではなく、もっと世界的な視野を以て、地球規模で物事は捉え考えるべきなのだ。結局のところ、近視眼的で卑近なことだけしか考えられない人は、いずれ想定していない事態に遭遇し、それに因って翻弄されるのは必定だ。卑近なことにしか思いが至らないのだから、当然の帰結であろう。

・・・挙げればキリがないからこの辺で苦言は止めておこう。でもね。。。

「それじゃあ余りにも意識が低すぎやしませんか?」という思いから、そんな現代の日本人への警鐘を込めて付けたタイトルが、<総じておバカな国民に告ぐ!>なのだ。

尚、私は<総じておバカな国民>から自身を除外している訳でも、こうして<青臭い>意見を述べている訳でもない。<自分も愚か者の一員>であることは重々承知している。

但し、考えることを放棄して安穏な今を享受している過半の人達よりは、問題意識を少しだけ多く抱えて、それを何とかしようと日々思い、行動に移しているのは確かだ。それは偽善的で享楽的で尚かつ自己中心的で、総じて易き方に流れがちな人々の行動を見て、<他人の振り見て我が振り直せ>的な、且つ自身の過去の行状を顧みての、自戒と反省の結果でもある。

水は低きに流れる。それはそうだろうが、「人間だからこそ、それに抗うことも出来るのでは?」と言うのが私の提案だ。「もっと自分というものを持って下さいね」と言うのが私の願いだ。そうでなければ押し並べて日本人は《一生子どものまま》で終わるだろう。

<続く>

次回は、技術革新が世の中にもたらす変化とか、それによって世界情勢がどう変わるのかと言ったお話をしようかなと思っています。でも私のことですから。それこそあらぬ方向に話が行ったり、もっと身近で切実な日常のお話とか、久々の政治のお話とか、あれやこれや話題があちこちに飛ぶかも知れません。

でも私たちにとってどうでも良い話など何一つするつもりはありません。何しろ残された時間はそれほど多くはない私です。遣ること、そして遣るべきことは、それでも山積みで熟しきれないほど抱えている私です。だから一分一秒でも時間は無駄にしたくない。

ではでは皆さまご機嫌よう。


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〜海は 広いな 大きいな♪〜

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〜月が 昇るし 日が沈む♪〜

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〜海は 大波 青い波♪〜

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〜揺れて どこまで 続くやら♪〜

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〜海に お船を 浮かばせて♪〜

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〜行って みたいな よその国♪〜

「海(うみ)」作詞:林柳波、作曲:井上武士〜1941年発表、日本の童謡、文部省唱歌。

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黄昏時には、それを見つめる人々の、それぞれのドラマがあるように思える。

だから私は黄昏時の、あの昼から夜に変わる僅か数十分間のドラマティックな変化が好きだ。

そこには夕日を見つめる人々の、偽りのない心がまざまざと在るように思えてならない。

海辺に集う人達には、遠くに思いを馳せる、人それぞれの、静かで熱い想いがあるに違いない。

夕日には、それを見つめる人々の、日々の疲れを癒やし、赤心に還らせる何かがある。

 

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総じておバカな国民に告ぐ!<Volume.1> [迷える人々へ]

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<2023/10/26 16:47 残念だがこの日の夕刻、東京湾越しに富士山の姿を見ることは能わなかった>

別に不安も驚きも恐れすらも感じてはいないが、世界は崩壊あるいは破滅への道をひた走っているように思えてならない。つまり人類滅亡の時が迫っているというような、・・・そんな気がするのだ。今は明らかにしないが、私のこの感覚には、漠然とではなく明確な根拠がある。

しかもそれは、戦争の度に繰り返されて来た、破壊の後の復興あるいは再生というシナリオなど一切ない、地域限定的、または大規模で広範囲な国家群の瓦解、もしくは崩壊、あるいは文明そのものの消滅を意味しているようにも思える。歴史上消えた国家も文明も無数にあることを忘れてはならない。

であるならば日本国という国家も日本人という民族も、未来永劫続く訳ではないと知るべきだ。

たとえ日本という国家あるいはその概念が、神話の時代から数えてこれまでに2683年以上存続して来たとしても、令和5年の今この時以降も永遠に存続することなどあり得ない。理性ではそう分かっていても、感情的あるいは感覚的にはそうであって欲しくないという願望の方が勝ることも当然あるであろう。しかしそれは幻想なのだ。

人々とは気休めの嘘にすがり、己にとって都合の悪い事実には目を背けたくなるものなのだ。

恐怖という言葉に人々の大半はマイナスなイメージを持っている。だが恐怖がもたらすものは悪しき面もあれば良き面もあり実に様々だ。

もし自分が何かに不安や恐怖を感じているのだとしたら、それにただ怯えているだけなのか、それとも、その事象がもたらすものを克服しようと人一倍努力するかによって、自ずとその答えは変わってくるように思える。これは賢かろうが愚かであろうが皆同じなのだ。

だから、愚か者ほど恐怖を感じないというのは嘘だと思う。

愚か者は今起こっていることの正体が、いったい何であるのか理解できないからこそ不安を感じ、その結果として恐怖を感じるのだ。糅てて加えてそれを根源的に解消する術を知らない。だから見て見ぬ振りをして現実から逃避するのだ。まあだから愚か者なのだが。

同様に賢い者も恐怖を感じはするが、恐怖の正体が分かっていさえすれば、しかもそれを克服する知恵と能力さえあれば、恐怖は薄らぐことはあるだろう。

しかし生きている以上、絶対的に不安や恐怖を感じない人などいない。

たとえば貴志祐介の小説である『悪の教典』に出てくる主人公、蓮見聖司のような他人にまったく共感できないサイコパス(反社会性人格障害者)でもなければ、基本的にはそうだ(得体の知れない事象に対し不安と恐怖を感じてしまうものだ)と言えよう。

だが一つだけ言えることがある。

希望を失わず、恐怖に耐え、それを克服した者だけに未来はある。

もし仮に全てを失ったとしても、再生の道は必ずあるのだ。

ところで私は、冒頭で「私のこの感覚には、漠然とではなく明確な根拠がある」と述べたが、その根拠を一つだけ種明かししよう。

それは『生成AI』の誕生とけして無関係ではない。・・・理解できたかな?!

<続く>

次回以降は未定だが、もしそれがあり得るのだとしたら、本当に久し振りではあるのだが、『政治の話』を中心に、それが『私たちの生活』とどう関わって来るのかという事柄について語ってみたい。

当然ながら、緊迫の世界情勢と日本への影響についても言及したいと考えている。

題名は今のまま『総じておバカな国民に告ぐ!』で、変更はしない。

しかも顰蹙承知で<シリーズ化>まで考えている。

なにしろシニカルささえ排除した、表裏のない正義・正論おバカな『直言居士』だから( ̄∇ ̄)

<おまけ>

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<11月1日の日没時、東京湾越しに久し振りにある現象を捉えることができました。西の空に太陽が沈んだ直後、富士山の後方、つまり東の空に反薄明光線が影のように放射されていたのです。日中の最高気温が夏日になる陽気で、空気中の水蒸気が未だ多いために遠くが霞んで見えますが、これから12月1月と寒さが増すようになれば、空気は澄み富士のシルエットも一層くっきりと見えるようになります。そうなれば反薄明光線もよりくっきりと遠くまで届くようになります。
この日、東京湾の海上に浮かぶように見えた富士山のシルエットと太陽光の残滓、それはとてもとても美しい光景でした。この後、電動アシストなしの時代遅れのママチャリを漕いで、薄暮の中を夜陰と追い掛けっこをするように急ぎ帰途に就いたけれど、検見川浜と幕張海岸を繋ぐ美浜大橋の上から、飛ばしに飛ばして35分ほどで帰宅してしまった私です。今までの最短記録達成の瞬間である。因みに一夜明けた11月2日の昼になっても筋肉痛は一切ないし、これからも恐らくはないだろう。近頃の私は肉体的にも精神的にもタフだ!(*´∀`*)>

<2023/11/03 21:56追記>

任命責任どころではない。岸田総理の人を見る目の無さは底無しのようだ。

柿沢未途議員は、以前から問題児だった。身辺調査などまともにしていないとしか言いようがない。<前科>があるのにこれも知らないで法務副大臣に任命したの? その記事はココをクリック。

加藤鮎子こども相も能力不足&勉強不足で、これで果たして適材適所と言えるのだろうか?

立民の蓮舫議員の質問にまともに答えられなかったし、再三の質問にまともに答えられず、答弁できない加藤こども相に代わって答弁した武見敬三厚労相も、(官僚の耳打ちアドバイスがなければ)詳細な内訳を答えられず失笑とヤジを買った。その記事はココをクリック。

どうでもいいけど、こんなのしか自民党には人材がいないのだろうか? それに毎回毎回「当人に説明責任がある」って岸田総理は言ってるけど、一度だって&誰一人まともに説明責任を果たした議員はいません。

岸田総理大臣殿、貴殿はあまりにも国民を馬鹿にしていないか!


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自己正当化という偽善と欺瞞の齎(もたら)すもの [迷える人々へ]

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<有名なキリスト教巡礼路の終着点が"Santiago de Compostela"、私たち夫婦はここに2回行った>

タイトルヘッダーの写真だが、このサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂前の、オブラドイロ広場の中心の、石畳に埋め込まれた終着点の道標?である。(上記の写真では、多くの人が集まり座っている辺りにある)なおここに彫られたホタテ貝は巡礼の象徴で、(日本の一里塚さながらに)巡礼路では聖地の道順を示す矢印とともに、分岐点等々至る所で見られるものだ。

イエス・キリストの使徒であった聖ヤコブ(スペイン語で『サンティアゴ』)の聖骸の安置された、スペイン西北部のガリシア州に在るサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂は、ローマ、エルサレムと並ぶキリスト教三大聖地に数えられている。
そこに至るヨーロッパ中に張り巡らされた巡礼路はスペイン語(カスティーリャ語)で "El Camino" (エル・カミーノ『その道』)と呼ばれ、その全てがこのサンティアゴ大聖堂に繋がっている。
勿論お膝元のスペインやポルトガルにも幾つも巡礼路はあって、それら全てを辿ってサンティアゴ大聖堂に辿り着いた人は、世界広しといえどもそうは多くはないであろう。一生のうちで3回も行けば多い方だといえる。恐らく10回行っても全部の巡礼路を辿ることは不可能と思われる。
それにこの巡礼路は途轍もなく過酷な道である。町(或いは村)と町(或いは村)との間は、どこまでも続く炎天下の平原か、起伏のある曲がりくねった道、あるいは険しい山岳地帯で、人は殆ど住んでおらず見渡す限り家はない。ましてやコンビニやレストランや大規模ショッピングセンターなどあろう筈もない。
そうは言っても近代から現代に至るまで巡礼者が休息し一晩の宿を借りることは出来る。昔は野宿がもしかしたら当たり前だったのかもしれないが、四国お遍路同様にサンティアゴ巡礼の旅には、巡礼専用の宿泊施設である『アルベルゲ』があるからだ。しかし基本連泊は出来ない規則になっているので、ちょっと疲れたから数日休ませてくれとは言えない。そのようなこともあって、巡礼の旅が過酷であるのは今も昔も変わらないのではないか。
それが証拠に、現在のように医療が発達し、野生の狼もおらず、治安もある程度確保されていたとしても、途中でリアイアする人の数は殊の外多い。それは最もポピュラーな、フランス南部のトゥールーズから始まるピレーネー山脈越えの『フランスの道』でも、しかもかなり健脚な巡礼者であっても、最短で1ヶ月は掛かることからしても容易に推し量れるであろう。
通常は40日ほど掛かるようだが、新調したトレッキングシューズでもサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂に着く頃には、靴底はすり減り靴紐は切れ、大抵ガタが来てボロボロになってしまう。
足も最後まで無事な巡礼者は稀だと言えよう。皆、大なり小なりマメが出来たり足の裏の皮がベロッと剥がれ、血だらけになったりというアクシデントに見舞われている。重いザックで肩を痛めたり擦り傷を負う巡礼者も多い。そうした怪我だけでなく、巡礼の旅が長期に渡ることから、体調を崩し病気になる人も少なくないし、精神的に参ってしまう人は必ずいる。
それにスペインの夏の気温は日中40度を軽く越える。私がスペイン滞在中に経験した最も暑い日はコルドバからセビーリャ(セビリア)に至る車中(レンタカーを借りて運転していた時)の45度だ。3日前は50度近くまでいったとオスタル(ホテル)の受付の女性は当然のように言っていたから、世界中に熱波が押し寄せた2023年は、もしかしたら、否、もしかしなくても50度を越える日が幾日もあったものと思われる。
日中の最高気温45度を経験したその日は、夜8時になっても38度までしか下がらなかった。幾ら日本と比べて乾燥した空気だとはいえ、熱帯夜の夜は寝苦しかった。
であるからにしてフランスからの道などは、セビーリャより遙か北で幾らか気温は低いとはいえ、ピレネー越えなどを考えれば寒暖の差は激しく、しかもガリシア州に近くなるとそれまでの乾燥地帯が一転して亜熱帯もしくは温帯雨林的に雨の日も多くなり、その過酷さは四国八十八カ所札所お遍路の旅を遙かに越えるものであろう。それでも世界中から集まった人々はサンティアゴ・デ・コンポステーラを目指す。
このサンティアゴ、欧州で新型コロナウイルス禍がようやく収まった2022年は、歴代最多の55万人がこの地を目指して巡礼の旅に出たという。今年はそれを超える人々が巡礼の旅にでているのではあるまいか。
そうして世界中から集まった巡礼者の多くは、その道程が長く起伏に富み過酷であるがゆえに、この長い旅路で多くのものを得るという。(逆に失うものがあるかも知れぬ)
私がこの道の存在を知ったのは、2度目にスペインに行こうと決めた2017年だ。ツアーではなく個人旅行で行く計画(丸1ヶ月)をした私は、ガイドブックを見てサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の旅の存在を知り、その紹介コラム欄に載っていたパウロ・コエーリョの著作、『星の巡礼』という小説の存在も合わせて知った。以来是が非でもここに行きたくなり、旅程の中にしっかり組み込んだだけでなく、ネットでこの小説の書評を見てすぐに角川文庫版を購入して巡礼の旅とはどんなものなのか知ろうとしたのだった。
その後2019年のポルトガルの旅(きっちり3週間)の終盤に、ポルトから足を伸ばしてこの地に4連泊して以来、まだ2回しか行っていないが、今後欧州に行く機会があったらサンティアゴ・デ・コンポステーラには必ず行こうと決めている。
だが実のところ巡礼の旅は一度も経験したことがない。サンティアゴ・デ・コンポステーラに幾日(3泊〜4泊)か滞在し、その周辺を散策したり、ちょっと遠出して終焉の地といわれるフィステーラ岬を訪ねたのみだ。しかももう長期間に渡って海外旅行をする体力はない。そして今は海外に行くお金さえもない(@^▽^@)
だがしかし、妻はこの聖地が今も大好きだ。でも昨年から膝を痛めているので、あらゆる条件が揃ったとしても、巡礼の旅はおそらくは実現しないであろう。私たち夫婦は年老いた。

それでも、この旅を通して経験したであろう巡礼者の心の変化に、及ばずながら思いを馳せることは出来る。彼ら彼女らは総じてこう思ったはずだ。
敬虔さとは何か、正直であることの意味、自分を見つめ直す謙虚さを持つことの大切さ。
つまらない意地を張るのも、中身もないのに体裁を繕う事も、それら見栄も虚栄も全ては空しい。
そうした諸々を捨てて、穏やかな心を得た(取り戻した)時に素直な心が蘇るであろう。
それら諸々の真理を、巡礼者の多くはこの長く苦しい旅を通して学び、経験するのだ。
それは自省、あるいは過去を振り返る旅であり、明日に繋がる貴重な心の旅でもある。

たとえ途中で挫折したとしても、そこから得るものは必ずあると私は思っている。

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